英国政府の一大国家プロジェクトであるイングランドの南北を結ぶ新高速鉄道「HS2(High Speed Two)」の建設工事が2020年9月にようやく開始した。HS2の敷設計画は3段階(フェーズ)に分かれており、フェーズ1がロンドンとバーミンガムを繋ぐ路線であり、フェーズ2はバーミンガムから2つの路線に分かれる。一つはクルー経由でマンチェスターまでの路線で、もう一つはイースト・ミッドランズを通ってリーズまで路線が敷設される見込みである。この路線が完成すれば、在来線とも連結され、スコットランドを含む25以上の駅へのアクセスが可能となり、英国の人口の半分にあたる約3,000万人へサービスを提供できることとなる。
HS2は最高時速360kmで走行する計画であり、ロンドンとバーミンガム間は現在約80分かかるが、これが50分程度に短縮され、スコットランドへのアクセスも格段に早くなる。また、同鉄道の開設によって移動時間が短縮できるだけではなく、輸送量の増加、敷設工事による雇用創出(向こう数年で2万2千人の雇用が創出される見通し)、南部に偏っているイギリス経済の均衡化など波及効果が見込めるとされている。
HS2の敷設構想は、ロンドン~イングランド北部間及びイングランド北部内での鉄道のアクセスを改善することを目的に、2007年に労働党政権が提案したことが始まりである。この構想の背景には、英国における南北格差という問題がある。従来、英国では北部は貧しく、南部は豊かであると言われてきた。その要因として、地域ごとの産業構造の違いがある。イングランド南部が金融をはじめとしたサービス産業を中心に栄えた一方で、イングランド北部は伝統的な工業地帯であり、製造業や鉱業が衰退したことで、貧困地域が多く生まれてきた。新型コロナウイルスの感染者が北部で深刻化していることも、北部地域の貧困層には在宅勤務できない職業が多く、また多くの人が狭い家屋での生活を強いられていることで、流行が加速したという見方もある。HS2の建設計画は、イングランド北部の経済を活性化し、このような地域格差を解消することも狙いとしてあった。そのような中で、保守党・自由民主党(2010年~2015年)の連立政権は、イングランド北部における経済成長と生産性に関する様々な問題に取り組む政策「ノーザンパワーハウス」を発表した。その政策の一環として、このHS2の敷設計画を労働党から引継ぎ、本格的に建設計画を開始したのである。
この敷設計画は英国全体に恩恵をもたらすとされているが、その一方で鉄道開設までに多くの問題を抱えている。第一に、建設にかかる莫大な予算である。2015年時点での総工費は557億ポンドと想定されていたが、その後、政府の見積もりではその倍の1060億ポンドにまで膨らむと推定されている。建設費用の高騰により野党や世論からの反発も強まり、一時は事業中止も検討していたが、2020年始め、ジョンソン首相は「管理体制が貧弱であったが、計画の基本的価値が損なわれるわけでない」とし、敷設計画を推し進めた。しかし、フェーズ1の着工作業が開始した2020年9月からわずか一ヶ月にして、8億ポンドの追加投資が必要となったことを政府が認めている。今後もさらにコストがかさめば、世論からの反発も強まり、計画に支障が出てくる可能性もある。
第二に、建設工事の大幅な遅れである。フェーズ1であるロンドンとバーミンガム間は当初、2026年末に開業する予定だったが、路線下の地盤問題の発覚等により、2029年から2033年にまでずれ込む予定である。また、バーミンガム以北の路線であるフェーズ2についても、2040年近くになるとされている。現在も新型コロナウイルスの影響により工事が遅れており、今後も建設作業が進むにつれ、開業がさらに後ろ倒しになる可能性があり、先行きが見通せない状況である。
問題は建設費用や工事の遅延だけではなく、実際に不利益をこうむる人もいる。HS2の路線が敷かれる場所に住んでいる家主は退去命令が出され、家を失うこととなった。敷設計画により約900棟の家が壊されるとされており、政府は土地の買収にこれまで6億ポンドも費やしてきた。また、工事による騒音問題も起きている。ロンドンのカムデン区はユーストン駅での敷設工事が始まってから、騒音に耐えられないという近隣住民の苦情が140件ほど寄せられたと報告している。他にも、敷設工事により森林が破壊され、多くの野生生物を危険にさらすと訴える環境保全団体も現れている。
このように、HS2開業までの道のりは前途多難であるが、その一方で開業すれば、交通アクセスの利便性はもちろん、地域経済の発展など英国全土で多くの恩恵が生まれるのもまた事実である。HS2推進派と反対派がせめぎ合う中で、政府はいかにしてこの国家の一大プロジェクトを実現させるのか、今後も注目していきたい。
ノーザンパワーハウスの詳細はこちら。調査員レポート(2017年1月掲載)
(所長補佐 高橋 2020.12)