ロンドンは人口の35%以上が英国外出身者で、地下鉄に乗っていても周囲の人が話している言葉が英語ではないことが日常的です。中でもロンドン東部のハックニー区は、ロンドンの中心であるシティから30分、人口246,300人のうち約40%が黒人やエスニックマイノリティ出身者で、区内では89以上の言語が話されているという、多様性に富んだ地域であることで知られています。ここに「Hackney Museum」と呼ばれるハックニーの移民の歴史について学ぶことのできる常設の博物館があります。
ハックニー博物館は、ハックニー区役所隣に位置するテクノロジー&ラーニングセンターの1階にあり、ハックニーの移民の歴史を辿る常設展の他、3~4か月ごとに企画展も開催しています。「地元のアイデンティティと誇りを喚起するために地域の遺産を収集、保存、保管すること」をミッションとしており、ハックニーへ移り住んできた人たちに関する展示やインタラクティブなプログラムなどを通して、地域やそこに住む住民についての理解を深めることに貢献しています。
常設展からは、移民が集まった経緯について多面的に学ぶことができます。展示の内容はハックニー地域に焦点を当てたものですが、ロンドンがこれほどにも多様性の高い地域となったのには様々な理由が絡み合っており、はるか昔から常に人々を受け入れてきた経緯があるのだということを感じることができたので、今回のレポートでは、その展示の内容をご紹介します。
最初の展示は、「初期の移民たち」。1000年以上前に、何も無かった現在のハックニーの地に、現在のドイツ方面からアングロサクソン人が移動してきました。ハックニーの公園で発掘された、木の幹をくりぬいて作った小舟のレプリカが展示してあり、当時の人が野菜や魚などを乗せて市場へ行くのに使ったものであると考えられています。
2つ目の展示はハックニーの市街化に関するものです。今はロンドンの中心市街地の一部となっているハックニーは、ビクトリア朝時代にはまだロンドンにほど近い郊外の村でしたが、その後裕福な人達が住む場所として次々と住居が建設されていきました。1853年と1870年に鉄道が通ったこともあり、ロンドンの中心で働く多くの人たちが緑の多いハックニーから通勤していました。
ビジネスの場としてもハックニーは人々を集めていきました。ロンドンの中心部からもほど近く、交通の便が良いこともあり、長年ハックニーは移住者にとって新しい事業を始めるのに最適な場所だと考えられていました。今でもハックニーには帽子メーカーや専門的な楽器店、靴の工房など、小規模な事業者が多く集まっています。
また、やむを得ずハックニーへ到着した人たちもいました。1600年代から1700年代にかけて、ハックニーには精神科病院があり、精神的な病を抱えた人が社会から隔離収容されており、病院内ではひどい扱いを受けていたようです。また、この頃はイギリスでも奴隷貿易で多くの黒人がアフリカから連れてこられており、ハックニーの裕福な家庭へ奴隷や使用人として売られてきました。1700年代初めからは、元々インドでイギリス人の家庭で働いていた乳母たちが、そのイギリス人家族が本国へ戻る際の船内での子どもの世話のために一緒に船に同乗してイギリスへやってきましたが、到着するとすぐに解雇され、インドへ戻る費用も無いためにイギリスに住まざるを得ないという状況に陥りました。インドの水兵も、イギリスの船に乗ってやってきましたが、イギリスへ着いてしまうとその後インドへ帰る方法がありませんでした。その後には、ハックニーにはそれら乳母や水兵が帰りの船賃を稼ぐまで住むことのできる住居が設置されました。
また、住宅地としてもハックニーは人気の場所でした。元々比較的安価な住宅が手に入りやすい場所ではありましたが、1950年代にスタイリッシュなキッチンを備えた公営住宅が建設されました。1930年代までは多くの人はそれぞれ個々の家主から家を賃貸していましたが、第二次世界大戦後から、自治体が住居の確保により積極的に取り組むようになり、スラムとなっていた場所を、セントラルヒーティングや温水、作り付けのキッチンやトイレを備えた大規模な公営住宅へと作り変えていきました。しかしこの政策には、古いコミュニティを破壊し、住民同士のつながりが希薄化するという側面もありました。さらに、これらの公営住宅には、短期的に移住するカリブやアジアからの移民は住むことができなかったため、彼らは結局安価で環境の悪い住居に住むしかありませんでした。
仕事を見つけるためにハックニーへやってきた人も多くいました。とは言っても、1800年代に周辺の郊外やドイツ、東欧やアイルランドからやってきた人々は、大人や子供が劣悪な環境の中で長時間労働を強いられるような工場で働いていました。その労働の一例として、この博物館ではマッチの箱の組み立て作業が体験できます(現在は新型コロナウイルス対策のため休止中)。30秒に一つのペースで組み立てることができれば、小さな家に住み週に1度は肉を食べることができますが、2分以上かかるようでは家賃を払うことができず、家を追い出されてしまうことになります。特別にキットをいただいたので試してみましたが、一つ作るのに40秒かかりました。これでは肉を食べるのは難しそうです。
また、第二次世界大戦後には、病院や公共交通機関と言った公共サービスの担い手が足りなくなり、アイルランドやカリブの国々、インドなどで職員を募集し、彼らは高い志を持ってイギリスへやってきました。しかし、イギリスでは心無い扱いを受けたり、白人イギリス人が好まないような仕事をさせられたりすることが多くありました。1800年代のハックニーは劣悪な労働環境の下、過密、貧困、不況、アルコール依存や犯罪などの問題が起こっていました。博物館では禁酒を奨励するAからZから始まる歌詞が書かれた紙など、当時の様子を伺わせる展示に興味をそそられました。
ハックニーに移住してくる人のみでなく、ハックニーを去る人々もいました。第二次世界大戦中には、空襲から逃れるため多くの人々がハックニーから出ていきました。また、ロマの人々など移動生活者が滞在することも多く、ハックニーは国内でも数か所しかない公式に認められた移動生活者のための居住地が設けられています。
次の「コミュニティ意識」という展示では、多様な文化や言語を背景に持つ人が、どのように地域に溶け込んでいったかが紹介されています。ハックニーへ来た多くの人々は、ハックニーに家族や知人などがいることが多く、ここでなら生活に必要なサポートが受けられると知っていました。トルコ人コミュニティの「Daymer」という団体や、クルド人コミュニティの「ハックニームスリム女性委員会」などが、同じコミュニティの移民をサポートしており、アットホームな雰囲気の中、同じ言語や方言で、伝統や経験、今後の未来について話すことができます。また、これらコミュニティグループの中には、差別や偏見を無くすための活動を行う団体もありました。ハックニーは他の地域と比べると、移民への寛容度が高い場所ではありますが、人種差別に関係する事件が起こるなど、今も人種への偏見が無くなっているわけではなく、人種差別への戦いは続いています。
街中の通りでも、ハックニーの移民の歴史を感じることができます。博物館の中には、元々ウナギのパイのレストランだった場所が中華料理店となっていますが、建具などはウナギパイのレストラン時代のものが残されています。また、昔の公共浴場や、衣服の工場であった場所なども、用途は変わっていますがその姿を留めています。
ハックニーは難民の安全な避難先としての役割も果たしてきました。宗教や人種、政治的な理由で国を追われたベトナム、クルド、コソボなどの人たちは辛い記憶と共にハックニーへやってきましたが、彼らの技術や企業活動、文化はハックニーをより豊かなものにしていきました。
また、ハックニーは300年以上に渡って政治的にも宗教的にも改革の中心地であり、ハックニーに住む型破りな人々は民主主義や自由、社会的正義と言った思想を推進し、その進歩的な見方やライフスタイルが人々を惹きつけてきました。また、ハックニーはかつてロンドン市の管轄外にあったため、独特で眉をひそめられてきたような人たちにとって、暮らしやすい場所でもありました。そのため、多くの政治家や宗教的活動者、作家、芸術家などを生みました。
展示の見学のみでなく、学校やグループ向けには、オンライン・オフライン共に、様々なワークショップも用意されています。なかには、古いスーツケースの中に、ある時代の移民の方の荷物がいくつか入っていて、服や持ち物などを実際に手に取りながら、それぞれの時代の移民の生活に想像を巡らせるプログラムもあります。また、教師のための、訪問の事前、事後の学習に使える資料のセットなども用意されており、ただ訪問して展示を見るだけでは終わらない、深い学習ができるようになっています。
ロンドンのエスニシティの多様性には目を見張るものがあり、多文化共生の視点においても参考となる点が多くありますが、具体的な事例を知るにあたって、なぜハックニーを含めたロンドンがこのような多様性のある場所になったのかという背景を知ることは、個々の多文化共生に関する施策への理解を深める上で欠かせません。
ハックニー移民博物館のウェブサイトでは、数多くの資料が用意されています。イギリスの多文化共生について調べる際には、ぜひ参考にしていただければと思います。
ハックニー移民博物館(Hackney Museum)
ウェブサイト: https://hackney-museum.hackney.gov.uk/
所在地: Ground Floor Technology and Learning Centre
1 Reading Lane, London, E8 1GQ
開館日: 火・水・金 9:30-17:30
木 9:30-20:00
土 10:00-17:00
※2021年6月現在は新型コロナウイルスのため予約制
(2021年6月 所長補佐 金子)