活動記録
2010年03月31日
スピーカーシリーズ「Japan at the British Museum, 大英博物館における日本について」
1 テーマ:「Japan at the British Museum, 大英博物館における日本について」
2 日時:2010年2月19日(金)14:00~15:30
3 講師:セインズベリー日本藝術研究所長 ニコル クーリッジ ルマニエール様
【セインズベリー日本藝術研究所について】
・セインズベリー日本藝術研究所のあるノリッジは、15、16世紀にはロンドンに次いで裕福な都市であった。地理的にオランダに近いためにオランダとの交流が昔から盛んで、その結果、オランダから日本の焼物や漆芸品がもたらされたという歴史がある。ノリッジの町並みを見てみると、高いところに窓が設けられている建物が多いことに気付く。これは、織物生産にかかすことのできない光を多くとりいれるための工夫である。
・セインズベリー日本藝術研究所に隣接して大聖堂があるが、現在大聖堂の敷地内に日本庭園を造園中である。大聖堂は講演会の場所として使われることもあり、同研究所は毎月第三木曜日にThird Thursday Lecture(「三木会」)という日本美術・文化をテーマとした講演会をノリッジで行っている。今月の「三木会」のテーマは工芸についてであった。
・セインズベリー日本藝術研究所はその名のとおりセインズベリー卿ご夫妻のご支援により設立された研究所であり、研究所附属図書館では、セインズベリー夫人から寄贈されたバーナード・リーチの旧蔵書や、元駐日英国大使から寄贈された日本の古地図などの貴重資料も所蔵している。同研究所の姉妹機関であるセインズベリー視覚美術センター(Sainsbury Centre for Visual Arts)は複数体の土偶を所蔵している。昨年は大英博物館で「土偶展」を開催した。セインズベリー視覚美術センターはノーマン・フォスターが設計した建築物で、イーストアングリア大学キャンパス内にある。ここで今年 ‘unearthed’展と銘打ち「もう一つの土偶展」を開催することになっている。
【大英博物館について】
・現在の大英博物館のロゴは「The British」が小さく「Museum」が相対的に大きくなっている。これは世界の博物館であることを前面に打ち出すという意味がある。大英博物館の設立目的を見ても「世界のための世界の博物館」とある。世界の博物館として新しい歴史をかき、新しい発見をしていくことに存在意義を置いている。
・大英博物館の始まりは、ハンズ・スローン卿の財産が国へ寄贈されたことがきっかけとなっている。スローン卿は日本関係でも有名な人物で、彼が1727年に日本の歴史について出版した本の中に、「Japan is enclosed country.」というくだりがあり、この本がオランダ人を介して徳川幕府にもたらされ、幕府が翻訳を行う過程で「鎖国」という言葉が作られたというエピソードがある。
・現在、大英博物館と大英図書館の2機関が別個に独立して存在しているが、以前は大英博物館があったのみで、図書とそれ以外の資料を一緒に所蔵していた。、当時は所蔵品の中でも図書がその他のものよりも価値があるものとされていた。大英図書館が建設され(設立され?)、全ての所蔵品を図書館が所蔵するか、博物館で所蔵するかを選り分ける際に、例えば陀羅尼経を納めた百万塔などは経と塔がそろって一つの資料であるにもかかわらず、経典は図書館へ、百万塔は博物館へと選別されてしまった事例もあり、図書館の新設は必ずしも良い結果をもたらさなかった。
・1890年代の大英博物館展示室を撮影した写真を見ると、ショーケースをびっしりと埋め尽くすほど多くの展示品が並んでおり、当時は展示品の数が多ければ多いほどよいとされていたことがわかる。
【大英博物館三菱商事日本ギャラリーについて】
・大英博物館における日本コレクション蒐集のきっかけとなった人物は(大英博物)19世紀に勤務した学芸員オーガスタス・ウオラストン・フランクスであった。、お雇い外国人として大阪造幣局で貨幣鋳造の指導を行なったウィリアム・ゴーランドが日本の古墳を撮影した大量の写真や考古学資料も大英博物館へ入り、ウィリアム・アンダーソンが日本で北斎画を購入して大英博物館へ寄贈した上、英国で初となる日本美術史を執筆、等々1870年代頃から日本のものがたくさん入ってきた。
・正倉院、伊勢(の古社寺)等を調査し帝室博物館(現東京国立博物館)の開設に尽力した蜷川式胤は、日本の陶器を海外に紹介することにも積極的で、大英博物館の学芸員だったフランクスに日本の陶器を売却したことを示す記録が残っている。その関連資料の一つとして、当時の陶器のカタログのようなものも残されている。それを見ると、当時どのようなデザインの陶器が流行していたかがわかる。
・大英博物館では土偶展の他にも日本に関する特別展を開催してきており、以前には「わざの美」や「KAZARI」という特別展を開催した。特別展「KAZARI」では、15世紀から19世紀の日本における飾りとその意識を芸術の観点から展示した。日本語の「美術」という言葉は1873年につくられた言葉であるが、それ以前の日本における美術の概念はどのようなものだったのかと考えると、それは「ハレとケ」を構成するものであったり「飾り」であったりしたということがわかる展示となった。
・特別展「わざの美」の中で着物の展示方法をめぐって問題が生じた。日本人は通常着物を広げて着物の後ろ全体を見せるかたちで展示するが、西洋人からすると洋服は前から見るものという感覚があり、着物を前からも見たいという要望があった。日本人専門家から反発もあったが、最終的には360度どこからでも鑑賞できる展示ケースを用意して何点かの着物はそのケースに展示した。日本人の慣習・伝統ももちろん大切だが、西洋人に日本文化を広めようとする際には日本では当たり前となっている展示方法を見直すことも必要になるということを示す事例である。
・大英博物館の日本ギャラリーは1990年4月にオープンし、2005年半ばから2006年にかけての約一年間の大改装工事を経て2006年10月に常設展示として再オーブンした。新しいギャラリーでは、日本の先史時代から現代までを紹介している。新しい方法で日本を展示することに力を入れており、展示品についての解説も工夫している。
・また現代作品の紹介にも力を入れており、人間国宝を含む現役の工芸作家の作品の展示も重視している。その中でも特に技術の高いものを今後展示していきたい。また過去には生け花の実演を行う特別展示を行ったこともあり、最近では「生きている」とか「現代」というのが展示をする際のキーワードである。
・展示品には、アイヌ民族の衣装、被爆後の広島の地図、鉄腕アトムなどの漫画のポスターやその他映画のポスターなど様々なものがある。(年に3回展示替えがあり、これらの作品は展示されていない場合がある)
・大英博物館三菱商事日本ギャラリーで陶芸展示を手がけている中で最近感じることは、近年日本の存在感が落ちているということである。日本の存在感を上げるためにまた何か特別展を企画したいという気持ちはある。ただ最近の傾向として「craft, tradition」という単語を使うと来館者数が伸び悩むという傾向があり、例えば、craftはcraftingに、traditionはbeautyに置き換えるなど、表現方法も含め、どのようなかたちで日本を見せていくかという点が課題である。
わざの美バナーのかかった大英博物館正面
わざの美バナーのかかった大英博物館グレートコート
ノリッジのセインズベリー日本藝術研究所と大聖堂
イーストアーリングリア大学キャンパス内にあるセインズベリー視覚美術センター
土偶展図録カバー
大英博物館三菱商事日本ギャラリー
スピーカーシリーズ「道州制議論の行方~3度目の正直か、2度あることは3度あるか~」
1 テーマ:「道州制議論の行方~3度目の正直か、2度あることは3度あるか~」
2 日時:2009年12月10日(木)15:00~16:30
3 講師:新潟大学法学部教授 田村 秀様
【概要】
・道州制に関する議論が本格的に始まったのは、北海道で構造改革特区制度を用いて道州制の先行実施に向けた取組みが始まったことがきっかけである。
・その後国の大きな動きとしては、2006年の第28次地方制度調査会の答申がある。内閣府に道州制担当大臣と道州制ビジョン懇談会が設置され、政府として積極的に道州制について検討を進めていくという姿勢が示された。
・自民党、経団連も道州制に関して積極的で、それぞれ道州制に関して中間報告等を取りまとめている。
・総務省が推進していた市町村合併の進展とともに、都道府県のあり方もクローズアップされるようになった。富山県のように県内の市町村数が15にまで減少し、神奈川県のように政令市の数が3つとなると、県のあり方・存在意義は何かが問題となってくる。
・そもそも道州制とは、現行の都道府県を大括りの道や州に再編する構想のことで、議論の始まりは昭和初期にまで遡るとされる。そして1950年代に議論の高まりがあったが、これは新憲法によって導入された公選知事制に対する不信感、特別市制度の導入を巡る大都市と府県の対立が原因であった。1960年代にも経済成長を背景に都道府県合併特例法案が策定されたが、同法案は廃案となり、道州制導入の機運は後退した。
・ここ数年、多方面から道州制の提言が行われており、この議論の中には国の出先機関の統合も含まれている。
・なお、道州制と連邦制との最大の相違点は連邦制においては主権が分割されるのに対して、道州制はあくまでも単一国家・単一主権内での地方分権である。日本においては主権を分割することまでは考えていないので、連邦制ではなく道州制を導入する議論が行われているところである。
【道州制の歴史】
・都道府県統廃合の歴史を見ると、1871年7月に廃藩置県が行われ、3府306県が置かれたが、数ヵ月後の12月には3府72県へと統合が行われ、1876年8月には3府35県となった。このときに一番大きな県は石川県であった。1888年には1道3府43県体制が確立し、現行の区割りがほぼ確定することとなった。その後府県制制定、東京府が東京都へという動きがあり、1972年に沖縄県が復帰して現在の1都1道2府43県となっている。
・新潟県のなりたちについて取り上げると、明治4年以前には政府の直轄地であった「県」と「藩」が混在していたが、それが新潟県、柏崎県、相川県に再編され、明治9年に一つの新潟県として統合された。
・最も移り変わりが激しかったのは四国で、4分割から3分割へそして2分割となり、また最終的には4分割へと様々な変遷を遂げた。これらの統合・分割は、専ら明治政府によってなされていた。
・戦前から1950年までの議論においては、1927年田中義一内閣のときに「州庁設置案」が作成された。同案では北海道以外を6つの州(国の行政機関)に分割、府県を完全自治体化という提案がなされ、フランスやイタリアの三層制に近いかたちになっていた。
・1945年には全国を8つに分割し、地方総監府が置かれた。これはわが国で唯一実現した道州制との評価もある。1947年に地方自治法が制定されたが、その附帯決議に「都道府県の区域を適当に統廃合すること」とあり、これは当時47都道府県というあり方はまずいとの認識があったことを表している。
・1950年代には、特別市制度(特別市が都道府県から独立するというもの)をめぐり、府県と大都市の対立が激化した。市長会、市議会議長会などが都道府県の廃止と道州制の導入を主張し、知事会は道州制の導入に反対し、地方6団体内に大論争が起きた。この問題は1956年地方自治法改正により政令指定都市制度が創設されたことで「一応」の解決をみた。1957年の第4次地方制度調査会でも都道府県制度のあり方について大議論となり、答申には道州制案(「地方」案)と少数意見の府県統合案(「県」案)が併記されることとなった。
・その後、高度経済成長とともに水問題等の広域的な行政需要の増大が生じた。その結果、東海地区(愛知県、岐阜県、三重県)で合併の動きが起きたり、阪奈和合併構想(大阪府、奈良県、和歌山県)が持ち上がったりした。1966年の第10次地方制度調査会答申では、合併を希望する府県に対しそれを可能とするために法整備をすべきだとの内容が盛り込まれた。その後特例法案が3回提出されたが、いずれも廃案となった。
・経済界は企業同様、スケールメリットを生かすために道州制導入に熱心である。また自民党の道州制を実現する会による「道州制の実現に向けた提言」(2000年)、民主党の道州制推進本部「道州制―地域主権・連邦制国家を目指して」(2000年)等も出されている。
・都道府県も広域行政を行う上で道州制の必要性を感じ、県・知事が以下のとおり様々な提言等をしている。
・岸大阪府知事「近畿圏の提唱」(1990年)
・岡山県研究会「連邦制」(1991年)
・平松大分県知事「九州府構想」(1995年)
・北海道「道州制」(2001年)
・北東北3県の取組
・静岡県「政令県」(2003年)
【諸外国の状況と道州制の現状】
・連邦制、道州制、都道府県合併をより詳細に比較すると、様々な違いが見えてくる。例えば導入手順については、全国一斉のものもあれば、地域ごとの選択が可能とするものもある。その他、首長の選任方法、国政における参議院の位置づけ等も論点になることが予想され、憲法論議も出てくる。
・諸外国の状況を見れば、アメリカ、ドイツ、スイス、カナダ、オーストラリアは連邦制国家、日本はフランス、イギリスと同じ単一主権国家である。また日本の都道府県の規模(人口、面積)は諸外国と比較しても決して小さくないと言える。
・近年の道州制に関する動向としては、以下のような動きがあった。
・2006年2月 第28次地方制度調査会
・2008年3月 内閣府道州制ビジョン懇談会中間報告
・2008年7月 自民党第3次中間報告
・2008年11月 経団連の第2次提言
・2009年1月 鳩山大臣の国民対話
・経済界は道州制に積極的であるが、その要因の一つとしてアメリカのように州間の租税競争、またそれによる法人税減税の実現を期待していることがある。
・道州の区割り問題を取り上げると国民的議論が盛り上がるのは確かだが、ビジョン懇談会中間報告では、区割りについて「例」を示すにとどまった。
【政権交代後の動向】
・民主党政権誕生後、他の諮問会議、審議会等がそうであるように、自民党政権下での会議は事実上‘廃止’となっている。これにより、道州制導入に向けた諸課題についての議論は一旦リセットされることとなった。
・今後の動向は不透明ではあるが、2000年6月に民主党道州制推進本部が「道州制―地域主権・連邦制国家を目指して」をとりまとめている。その後の総選挙での公約にも「「地域のことは地域で決める」という民主主義の原点に立ち返って、徹底した分権化と地域主権の確立に取り組み、二一世紀日本の国のかたちを分権連邦国家につくり変えていきます。このため、国の役割を限定し、基礎自治体たる市町村の権限と財源を拡充するとともに、道州制の導入に段階的に取り組んでいきます」としている。
・また原口総務大臣は2009年7月に「民主党は基礎自治体主義をとっているが、道州制についても「地域が選択するということになれば」トップダウンの道州制導入でなく地域から盛り上げられた道州制導入ということで推進することになる」と発言している。
・既に橋下大阪府知事は、国の出先機関の受け皿として広域連合を活用することを表明している。近畿地方あるいは九州地方などで広域連合によって、都道府県と国の出先機関の機能が部分的に統合された場合、まさに総務大臣が言ったような「地域から盛り上げられた道州」として実現することになるのかもしれない。だが、解決すべき点は数多く残されている。例えば、環境の整った地域から順次道州を導入する場合、過渡期には道州と都道府県が併置されることになる。この場合の広域的な利害関係の調整をどのように行うかについてのルール作りも必要になるだろう。
・道州制は単なる都道府県合併ではなく、意味のある道州制とするためには国、地方を通じた統治機構の再編であり、中央省庁の再々編も視野に入れる必要がある。また国・地方の役割分担についても改めて考えてみる必要がある。道州制の統治機構についても多くの議論がなされることが見込まれる。首長は直接公選とするのか、議会は比例代表か、中小選挙区制か、そしてこれらの議論を受けて参議院の見直し論が出てくることも予想される。その他にも、道州制間の財政調整等、財政問題、そして区割り問題など論点は非常に多くある。
・加えて、道州制により影響を受けるのは行政機関だけではない。指定金融機関としての地銀、テレビ局、新聞社等、都道府県単位の様々な団体が、道州制の導入によって再編されるのではないか。