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2007年08月31日


スピーカシリーズを実施「ドイツの財政調査あれこれ」

地方財政審議会会長伊東弘文先生ご講演(メモ)

●テーマ: 「ドイツ財政調整あれこれ」
●講師: 地方財政審議会会長 伊東弘文先生
●平成19年8月31日(金)14時30分より
●於 (財)自治体国際化協会ロンドン事務所会議室

ご講演要旨

・ドイツ版地方交付税は、「財政調整」のしくみとして、ヨハネス・ポーピッツによりドイツで生まれた。1938年である。


・ナチス政権そして第二次大戦(1939.9-1945)という条件下、その理想は完全には実現しなかったものの、ヨハネス・ポーピッツの、市町村の財源保障中心の考え方は、現代の我々日本も学ぶべきところが大きい

《ご講演》

伊東先生のドイツ地方財政研究のきっかけについて

○今年で64歳になった。30歳前から、ドイツの地方財政の勉強を始めた。

○36歳になった頃、ヨハネス・ポーピッツの「将来の地方財政」という髭文字の厚い本に出会い、感激した。それからこの書物を意識しながら勉強するようになった。


財政調整とは

○財政調整は、Finanzausgleich(フィナンツアウスグライヒ)という。アウスグライヒは、「さらに平らにする」という程度の意味である。1918年にオーストリアでつくられた造語であるが、たちまち市民権を得て日常用語になった。1922年には財政調整法(フィナンスアウスグライヒゲゼッツ)として、法律用語になった。

○なぜこの言葉が広まったか。第一次大戦にドイツは敗北した。ドイツは、戦費の調達について、96%は国債によった。が、敵国のイギリスは、3分の2を所得税で補った。なぜ違ったか。これはドイツの連邦主義と関係がある。

○ドイツの連邦主義は、日本の幕藩体制と少し似ているかもしれない。各州は連邦政府に、所得税を渡さない。たとえ戦争という事態においても。戦費を負担する連邦政府は大赤字になった。赤字は公債でファイナンスされた。そういう違いが、財政面でみたドイツの敗北をつくった。

○そういう敗戦責任追及の観点から、財政調整が足りなかった、互いの調整がなかったという反省から、財政構造論争になり、そして敗戦責任論争となった。


日本への紹介

○当時の日本は、先進国ドイツに学んでいたので、言葉もすぐに輸入した。京都帝国大学助教授の中川与之助が、このころドイツがインフレで円がしっかりしていたのでドイツへ留学し、「フィナンツアウスグライヒ」が新聞で飛び交っているのを目にした。それを「財政調整とドイツ」とかいう題名で京都大学経済学部の「経済論叢」へ紹介した。

○ただし異論もある。内務省もドイツに注目しており、その考え方や言葉の使われ方を知っていた、という説もある。

○中川与之助は年齢を経て、帰国し、ドイツに学んだ教授として活躍したが、人が良く、ヒトラーのドイツを支持する会というようなものを組織し、会長になった。しかし、敗戦になり、ドイツ的なもの、右翼的なものは一掃するということになり、特に京都大学はそれが激しく、教授会で責任決議がなされ、大学を退いた。

○「財政調整」とは何か。「アウスグライヒ」を、「調整」と訳した中川は学者的である。英訳はアジャストメントとか、最近はイクオリゼーションともいう。フェア(Fare)アジャストメントとは鉄道や駅における精算のことであるが、「精算」という言葉の語感がよく出ている。料金の過不足を最後にアウスグライヒするのであるから。


ドイツの財政調整の始まり

○第一次世界大戦での敗戦、そして、もっと財政調整すべき、ということになった。プロイセン州が戦争の中心だった一方、バイエルンは高見の見物だった。プロイセンと連邦政府は借金をしまくり、プロイセンとバイエルンとの財政調整を、ということから始まった。予算精算、財政精算といった議論が進み、市町村中心に考えるべき、不足財源の確保あるいは補填が安定的に行われるしくみが必要だと考える「市町村財政主義」の一派と、市町村など信用しない、補助金でやらせてぎりぎり締め上げるべしという「連邦財政主義」の一派の、ふたつの考え方が出た。


ヨハネス・ポーピッツと調査委員会

○1929年、世界恐慌となった。4人からなる調査委員会を起こし、1年研究した。代表が、ヨハネス・ポーピッツだった。

○ポーピッツは、1883年生まれで、1984年にドイツでは生誕100年の展示、アウスシュテルングがあった。ドイツ大蔵省OB会主催。彼の小学校の通信簿に至るまでさまざまなものが展示された。裕福な生まれではなかった。トップで入省した。ただし半年の試用期間後の試験では25番でどんじりだった。が、才能があり、1920年代に大蔵省事務次官になりおよそ4年勤めた。昇進という点では恵まれた人と言えよう。

○1929年の世界恐慌で設置された、ポーピッツを代表とする調査委員会は、1931年12月、市町村中心主義の答申を出した。

○答申は400ページ。自主財源、つまり地方税を与え、弱体団体が出るのでそこには財政調整を行うとした。精算金を支払うというイメージである。精算を行う財源は所得税と法人税等の一部を充てる。日本の交付税と大きくは同じである。


ナチス政権へ

○1933年1月、ナチスが政権をとった。50歳前後の働きざかりで、ナチ政権に加わるか野に下るかの選択を迫られ、ポーピッツはナチ政権に参加した。


財政調整と不動産の評価

○ポーピッツが悩んだのは不動産税である。これは日本の固定資産税とは少し違う。不動産の価値を正確に測定できるかということについて、悩んだ。

○日本も、固定資産の評価については議論がない訳ではない。

○不動産の価値の測定を低くし、住民にまけている団体がトクをしてしまう。基準財政需要との差額が大きくなり、国から調整を受けられるので。(仮説です)

○完全に近い地方交付税をつくるにあたり、このように悩んだ。そして1936年、ナチス安定期だが、複雑な「資産評価法」をつくり、全国一律の評価をやった。これがうまくいったかどうかは、今後研究したい。ドイツで、統一的に資産を評価したのはその1回だけである。1964年にもう一度やり1974年に適用したが、当時はまだ東ドイツは同じ国ではなかったのでできなかった。


ドイツ市町村財政調整法へ

○ポーピッツは非常な政治力を発揮した。ヒトラーにも取り入った。1938年にドイツ市町村財政調整法ができ、1939年に実施された。市町村の財源が守られることになった。戦争に入ったので、そこはなかなかうまくはいかなかったが。

○ドイツを旅すると、こちらに20軒、あちらに30軒と、集住しているが、そういう自然村を行政村に変えるのが、日本よりもゆっくりしている。(ポーピッツの考えは)そういう自然村なりの財政を安定させるということが、国家の安定につながるという考え方だった。


ヒトラーとの決裂

○ポーピッツは数奇な運命をたどった。穏健であった彼はヒトラーと合わず、1944年7月20日の事件となった。アフリカ戦線で右手と左足を失ったドイツの貴族出身の将校が、爆弾をヒトラーの足元で爆発させたがヒトラーは死なず、クーデターは失敗した。ポーピッツもこのクーデターに向けた政権アピールを書いており、ヒトラーにクビにされ、極刑に処された。お墓もない。


戦後のドイツ

○戦後の、ドイツの財政調整については、ほかの先生が来ているので話してもらえるだろう。停滞感はぬぐえない。「現代西独地方財政論」を書いたころから、進んでいない。


《質 疑》

(ポーピッツは最初から大蔵省にいたのではなかったのか)

○ポーピッツは、最初内務省に入った。ビスマルクの作った帝国である。ビスマルクの使命はドイツ統一だった。しかし、薩長にあたるバイエルンが反対した。そこで、統一はかたちだけなのだ、という説得のしかたをした。そのとき、大蔵省をつくると、集権になるので、つくらなかった。プロイセンの内務省がドイツ統一政府の大蔵省を兼ねた。が、戦争が始まるとそれではだめで、プロイセン内務省から統一国家の大蔵省を切り離し、当初700名程度の組織から、何千人の組織となった。人材をリクルートしていった。ポーピッツは税制の専門家として内務省から大蔵省へ移った。40歳代で次官となった。


(ドイツでの位置づけは)

○ポーピッツの名前の出ない教科書はない。


(イギリスでは、不動産の評価替えは1990年くらいだったと思うが、大都市は反発したと聞いている)

○ヨーロッパは一般的に評価がしにくい。資産を持つ人が反対する。日本は3年おきに評価替えしているが、これは奇跡である。もっとも奇跡は往々にしてイカサマであるが(笑い)。

○ドイツでは、その後、1964年の評価に係数をかけて評価し課税していたらしいが、数年前、係数が非客観的であり憲法違反であるとの判断が出された。ドイツでは、不動産は大切なのである。


(現在の停滞感とは)

○ドイツでは自然村を行政村に変えることを1970年代に試みたが、社会民主党の州は進が、保守党の州では進まない。市町村規模を大きくする方向に進まないのは、ドイツの、保守的なものを大事にする国民性のせいかもしれない。法的にも、強制はできない。イギリスと異なり、州憲法でコミュニティーの自主権が保障されており、それを脅かすと判断される事柄はできない。


(イギリスは合併がすごい。1団体の平均は12万人ですでに日本より多いが、さらに合併を進めている。しかしイギリスは財政調整は広げていない。保守党は反対だが、野党だからか)

○そういう面もあるかもしれない。

○ドイツでは、戦後のイッシューは、むしろ共同税である。州と連邦の財政調整をどうするか、が、市町村の財源保証よりイッシューになった。ドイツが戦後州制度をとったということは、1920年から30年代は統一国家、単一国家の流れが強く、戦後1949年以降の憲法も連邦国家ドイツではなく単一国家ドイツになる予定だった。そして、統一国家単一国家の予算が税収も確保し、それを各地域へ分配するというイメージを持っていた。

○当時の連合軍占領下だったので、米国の占領軍のクレイ将軍は、米国の制度は何でも素晴らしいという自信があり、単一国家ドイツの提案を持っていき国が税もとると言ったらカーッときて、州政府も徴税できるはずである、米国もそうしていると。そして拒否権を発揮した。そして、税徴収を州単位に変えた。弱い州と強い州が出るので、独特の財政調整が生まれ、今のドイツの共同税システムができた。以上はレンチュ著・伊東訳「ドイツ現代財政調整発展史」(九州大学出版会)に詳しい。


(再び戦争を起こせないように、ドイツや日本を地方分権国家にしようとしたともいわれるが)

○本当は拒否権からである。


(ドイツの歴史のなかでは、ナチスの統一国家のほうが異例だったともいわれるが)

○当時の官僚の中心は、ナチは拒否するが、単一統一国家が合理的だと考えていた。米国が、分権が国力を弱める力になると考えていたのも事実である。


(地方交付税の制度は当時から同じ制度として続いているのか)

○ドイツの交付税は、財源調整だけである。一方、日本は、税収調整と、経費調整の組み合わせである。ドイツは、経費調整はやらないで、税収調整だけである。過少調整ともいわれる。日本は、経費についてわかりにくい補正をやり、経費を意図的に増やす。そして需要が大きくなる。過大調整ともいわれる。態様補正は補正の傑作であり、改められ、それまで多額の人件費を使っていた大阪市は100憶減らされ、人員削減などを行っている。

○ハンブルクの役人で反財政調整派であるフィッシャーメンスハウゼンを中心に、ハンブルクは爆撃を多く受け財政需要が大きいので財政調整に金は出せないと言っていた。しかし人は豹変するもので、連邦政府に行った後は、州間調整が必要だと言うようになった。法案がとおり、共同税が決定した。この人はモービル石油の副社長になった。共同税は国の懐は痛まない。日本と違う。日本は、大蔵省が32%アップを恐れている。


(日本で、財政調整は戦時中の配布税から入ったが、それまでは、大蔵大臣の高橋是清などが、地方が甘えるからだめだと。)

○そうである。しかし32%プラスかマイナスかの合理的考え方をめぐる議論はそう簡単にはいかない。

○市町村中心主義、社会の根本、国と社会とに分け、社会の中心は市町村だと、生活保護や市民の生活に密着しているのだという、ポーピッツの考え方を、今の日本に当てはめれば、32%をめぐる議論も新しい光あるいは議論の余地があるかと思う。

○それに対し、連邦主義という発想、市町村はあてにならないという考えが、ドイツに強かったのも事実である。それは日本の大蔵省の本音でもあるだろう。


(ドイツ大蔵省の権限は)

○あまりない。統計が主な仕事というのは事実。分配にあたっては、州同士が話し、大きい州が小さい州をどやして金額を決めているような状況である。


参考文献
1.伊東弘文
 現代ドイツ地方財政論 文真堂
2.レンチュ著 伊東訳
 ドイツ財政調整発展史 九州大学出版会
(以上)



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